『自己愛性人格障害』本人のブログ

自己愛性人格障害者本人が綴る、深層心理

自尊心のなさ

自己愛性人格障害者は

自尊心がない

自己愛だけは強烈に持ってるのに

自尊心がないため

本当の意味で自分を大事にできない

 

そもそも、自尊心というのは

自分の価値観や考えがあって

それを敬うことから生まれるものだ。

その

価値観や考えを持っていない

持っていないものを敬うことなんてできない

 

理屈ではやってはいけないとわかっていることも

いざとなるとその歯止めは全く効かない。

今自分が1番気持ちよくなれること

しか考えない。

他人が許してくれるところまではやる

許してくれなくなったらキレる。

親なんだから、伴侶なんだから許せと言う。

 

逆のパターンもある。

この人を手放すと自分の価値が下がる

と思うと、何をされても手放さない。

例えば、自分のことを好きではないと言う人に対しても

執拗にすがりつく

普通は好きではないと言われたらある程度自尊心があれば、自分のためにも相手のためにもならないと思って手放すだろう。

しかし自己愛性人格障害者にはこれができない。

価値が下がることは負け

と考えているからだ。

そして手放す時というのは、自尊心の上に納得した手放し方をするのではなく、ただ無関心になったときに手放すのだ。

 

自己愛な人生⑤〜理想化と脱価値化〜

自己愛性人格障害者は

自分を賞賛する者

現実的な処理をしてくれる者

が大好きである。

 

賞賛とは褒めてくれるのはもちろん、

自分の意見に共感してくれる人もそうだ。

逆にいい意味で他人に興味がなかったり

自己愛的ではなくただワガママな人

あっさりとした人は苦手である。

 

元夫は上記の2つを満たしていた。

更に言うと、芯が強くて優しく、思いやりに溢れた安心感のある人だった。

自尊心をしっかりと持ち、いつもまっすぐであった。

自己愛性人格障害者とは真逆な人物だった。

これらは全て別れてから気づいた。

(書いてると泣きそうになる)

 

私は元夫を完全に

理想化

していた。

 

しかし、彼を尊敬していたのではない。

なんでも言うこときいて褒めてくれる人

あまり知識がないから見下しの対象になる人

だった。

 

自己愛性人格障害者だと自覚してなかった私は彼に対して放漫に振る舞い続けた。

とはいっても喧嘩をするわけではなかったのでうまくいってると思い込んできたが、彼は

我慢し続けてた

と今となっては理解できる。

 

そしてあることをきっかけに私は

自己愛忿怒

をおこし、彼を罵りまくった。

脱価値化

の始まりだった。

 

自己愛性人格障害者は相手がうまくコントロールできなくなると、相手は最低なやつだと思い込むことで自分を保とうとする。

自分の意見をぶつけるのではなく、とにかく相手を貶めるためならあることないことを言い続ける。

ほんの些細なことでも100倍くらいにして罵る。

 

あとからあなたはこんなことを言っていた!

と言われても覚えていない。

本当に思って言ったのではなく、その場で怒りを爆発させ発散させるためにいったのだから、内容なんて覚えていない。

記憶の改竄、捏造

も特徴としてあげられるが、わざとやっているのではなく、よく覚えていないからいいようにでっちあげるのだ。

 

 

私は理想化→脱価値化で離婚にまで至ったわけだ。

もちろん泣いてすがって粘着しまくった。

犯罪手前の執着を繰り返した。

彼なしの自分は

無価値になる。

と本気で思っている。

彼のことが好きではなく、彼の妻である自分が好きだから、居なくなられては困るのだ。

現在私は実家に引きこもってニートである。

無価値な自分では誰にも会いたくないのだ。

 

何があったかは特定を防ぐために伏せておく。

あくまでも彼を想ってではない。

自分のため

である。

これが自己愛性人格障害者の本音だ。

 

自己愛忿怒

自己愛性人格障害者は

精神が脆くきれやすい

ほんの少しの否定でも怒り狂う

 

とはいえ、私自身あまり争いはしたくなく

冗談でいわれたことに関しては

わりとヘラヘラと流せるほうだった

(過去形なのは現在は流せる自信がないからだ)

 

友達付き合いの上ではあまり本気で指摘することというのはないが

一度あることを指摘されたときに

私は共通の友人に

あいつは友達じゃない

と言ったことがある

するとその友人には

いや、友達だから叱ったんだろ

と言われた

冷静に考えたらそうなのだが

自分を否定する奴は全員敵

に見えてしまうのだ

 

親、恋人、配偶者に対しての爆発のしようは半端ではなかった。

相手が傷つくことは考えていない

身近な存在だからこそわかってほしい

どんなことをしても愛してほしい

その思いだけが暴走してしまう

 

自分の意見(屁理屈)を否定されると

その理由や根拠を聞くことなく

また聞いても全く納得もできず

怒りだけを爆発させてしまう

相手にしたらたまらないだろう

そして自己愛性人格障害者は

自分の価値観など存在しない

そのためただ言いくるめることだけ考えるので

口論になると次から次へと言葉が出てくる

そしてそのせいで自分が不利なことになっても

受け止めきれずに責任転嫁する

責任が取れないのだ

 

世の中価値観が全て会う人なんていないのに

自己愛性人格障害者は求めてしまう

そしてその価値観こそしっかりしてればいいが

関わる相手によって簡単に変えてしまう

 

ただ順応に聴き入れればいいが

口先で賛成していても、どこか違った動きをする

自分がないからだ

まさに

支離滅裂

である

 

他人の意見に理解を示しながら

自分の意見をしっかり持つこと

それによって成長や発見があるというが

自己愛性人格障害者の私にとっては

理解を示しながら別の意見を持つ方法が

全くわからない

 

 

 

 

 

取り巻きをつくる意味

自己愛性人格障害者は取り巻きを作りたがる。

自分をうまいこと持ち上げてくれる人を周りに置くことで、

自分は素晴らしいと勘違いする。

 

私も取り巻きを作っていた。

大学時代のバイトの後輩数人である。

後輩たちは本当に人間として優れている。

素直で、聞き分けがよく、ユーモアがあり、しっかりしていて、気遣いができる。

私はただ後輩という理由で、いじり倒し、バカにした発言や上から目線のアドバイスを送っていた。

自分では面倒見のいい先輩だと

思い込んでいた

後輩からしたら鬱陶しいことこの上なかっただろう。

よく考えるといつも私から連絡をとって集合だ、なんだと言っては自分の自慢話ばかりしてたように思う。

後輩達は私を持ち上げることもあまりなかったが、愛のあるけなしをしてくれることが多かった。

私はユーモアを受け入れられる先輩だと

思い込んでいた。

笑いながら貶されていたので愛があると勘違いしていたが、本当は心からけなしていたのかもしれない。

 

自己愛性人格障害者が取り巻きを作るのは、

自分は素晴らしいと思いたいからだ

でも本当は素晴らしいと思わせてくれる優秀な取り巻きのおかげで、取り巻きは自己愛のことを鬱陶しいと思ってるのは間違いないだろう。

後輩だしどう思われてもいい

そうやって私は調子に乗っていた。

 

自己愛性人格障害であると自覚してからは後輩には会っていない。

素晴らしくない自分だとどう接していいかわからない。

というのは綺麗事で

接しても気持ちよくないから

接したいと思わない。

本当に最低な人間だと自分でも思う。

 

自己愛な人生④〜自己顕示欲〜

私の行動の元になるもの

それは全て

自己顕示欲

である。

 

引っ込み思案だった小学校時代

休み時間はひたすら絵を描いていた。

少女漫画のような絵であったのだが

まわりにはその絵を見に来るクラスメイトが集まってきた。

注目されるのが嬉しい

いつの間にか絵を描くことが目的ではなく、絵を見てもらうことが目的になっていった。

 

中学時代、引っ込み思案だった自分を変えたくて中学デビューをした。

夏休みに髪の毛を染めたり、派手な格好をした。

自分は特別である

みんな注目してくれ

といわんばかりに派手になった。

付き合う友達ももちろんみんな派手で、そういう友達を持つ

自分は素晴らしいのだ

と思っていた。

 

高校に入ってからは、

注目されたいがため

ダンス部に入った。

文化祭で注目されるのが快感だった。

さらに、大学受験もいい大学に入ることでみんなから注目されたかったがために必死に勉強して合格した。

自分はなんでもできる

自己愛は肥大化した。

 

面白い人間だとおもわれたくて、リアクションやキャラを大げさに見せることもあった。

しかし

中身は全く伴ってない

 

SNSが流行り出してからは

自分の思いや出来事を湯水のごとく載せるようになった。

みんなからいいね!やコメントがもらえることが快感だった。

 

本当にやりたいことなんてない

全ての行動は自己顕示欲のためだった。

 

健常者であれば、出来事自体を楽しみ、その上で楽しいことがあった、と共有するためにSNSを使う。

しかし、自己愛性人格障害の私は、SNSにのせて

みんなから賞賛されるため

に何かをする。

出来事自体に何かを感じたりその過程を楽しんだり、結果違っても楽しかったから良い、頑張ったからよい、という思考にならないのだ。

 

 

感謝・思いやり・共感の欠如

表題の通り、自己愛性人格障害者は

感謝、思いやり、共感ができない

いや、できないというより

実際は

その感性を持ち合わせていない

のだ。

だからこのような感情について理解ができない。

 

健常者であれば、純粋に親切な心から何かをしてあげたい、喜ぶ顔が見たい、と思い、そこから自分の価値観にそって自然と行動をするだろう。

その行動はその人らしく自然なもので、相性はあったとしても心地の良いものである。

しかし、自己愛性人格障害だと、

何かしてあげることで

自分にも良いことがあるかもしれない。

これをしておかないと印象が悪いかも。

恩を売っておこう。

という下心で動くため

ものをあげるなどの目に見える行動

一度やってもらって嬉しかった行動

を単核的に取ることしかできない。

心から他者を喜ばせたいという気持ちや自分の価値観を持ち合わせていないため、その行動はどこかぎこちなく感じるだろう。

 

実際私が無自覚の時は恥ずかしながら自分は思いやりに溢れた人間だと思いこんでいた。

友達の誕生日祝いを企画したり、飲み会の幹事を積極的にやっていた。

しかし、他の人が企画したときにはなんだかおもしろくなくて、積極的に参加せずにいた。

また、自分で決める時は相談などせずに勝手に決めていた。

他の人が企画する時は、きっと周りのことを考えながら、相談しながら決めていたのだろう。

私の場合はみんなから感謝されたいという

下心と自己顕示欲

だったことに気づいた。

やってあげた自分が好き

なのだ。

本当に他者を思うなら、それに基づいた行動をとりながら、認め合いながら決めるものだ。

そしてその決まったことはみんなで決めたこととして全員がハッピーになれるものなのだ。

自己愛性人格障害の私にはその気持ちが全くわからない。

心からの思いやりや感謝を持てるようになりたいが、

方法がわからない。

思わないものは思わないのである。

せめて学習した行動パターンで周りを不快にさせないように、気をつけるくらいしかできないと思っている。

 

 

自己愛な人生③〜協調性のなさ〜

私は運動神経がめちゃくちゃ悪い。
特に、球技なんて最悪だった。
どう動けばいいかわからない。
なんとなく
真似をしてみる
けど全く的を得ない。


協調性が微塵もない
自己愛性人格障害と運動神経の善し悪しの関係性については私は知らないので独自の見解ではあるが
人の立場に立てない
のでチームプレイができないのだと思う。


普通であれば、この人はこっちにボールを渡すのではないか、この敵はここからでてくるのではないか、等、人の動きをよむことで自分の動きを考える。
しかし、私はどう動けば自分はお荷物だとおもわれないか、と
自分のことばかり考えていた
これでは、成長もできるわけない。

 

さらに、健常者は誰かが非常に良い動きをしてチームが勝ったとき、また負けたとしてもよい試合ができたというときに、人はその人物に感謝して賞賛し、みんなで協力できたということに喜びを感じる。

私もそのような振りはできても

心の中では妬ましく想っていた

心からその人に感謝したり、みんなでやり遂げたことを喜ぶという気持ちが理解できない。

なぜ理解できないのかを、考えてみたが、理解できないものは理解できない。

結局

自分以外どうでも良い

のである。