『自己愛性人格障害』本人のブログ

自己愛性人格障害者本人が綴る、深層心理

引きこもりと自己愛

最近川崎での無差別殺傷事件によって

中高年の引きこもりが世間に注目されている。

 

テレビに出ていた引きこもりを支援する

専門家が言っていた。

例えば18歳から引きこもり始めた40歳は、

18歳のままなのだ、と。

40歳と思って接すると違和感しかないと。

 

引きこもりの兄弟を持つ人は言った。

弟は、昔から自分が優位に立てる人間としか

付き合わず、

それが社会に出て自分より能力のある人間と

付き合うようになってから

思い通りにいかないことで

引きこもるようになったと。

 

このような引きこもりは、自己愛である、

と私は思う。

自分はこんな人間じゃない、

自分をどこかで誰かが認めてくれるだろうし

認めてくれた人も過去にいた、

だから自分を認めることのない周りがおかしい。

 

でも誰しもが認めてくれない環境に身を置くと

自分が思い描く自分でなくなるから

それはなによりも恐怖であるから

引きこもって自分の夢だけは壊すことをしない。

そしてそんなふうに引きこもっていても

誰かに認められることはないため

どうしても関わることの避けられない家族に

その矛先はむく。

 

おまえがこうだから私はこうなった。

おまえのせいだ。おまえが悪い。

 

そうやって家庭内暴力に発展する。

 

これは単に客観的に彼らがそうだ、

というわけでなく、

正直そのニュースをみていると私自身

少なくとも元夫との別れから半年ほどは

そんなふうになっていたし、

下手をすれば今だってそのままだったかもしれない、

と思いニュースを見るたびに苦しくなるのだ。

 

これは男女差別と思われても仕方ないが、

私が男で、容姿もよくなく、

あの自己愛の過剰警戒な自分のままであったらきっと、

私もそうなっていたことはほぼ間違い無いと思う。

 

かろうじて私は女で、

容姿は色々と意見があるかもしれないが普通として、

過剰警戒の自己愛の私はか弱く、

なにか手を差し伸べたい存在にたまたま見えたから、

そのおかげで今のパートナーが私を外へ連れ出してくれた。

無理やりではなく、ゆっくりゆっくり、

前のようにそれなりに世間と

接することのできる私に戻してくれた。

 

結局全て他人に依存して

私は今の生活を手に入れた。

 

そうじゃなければ、

きっと今も実家で引きこもっていただろう。

 

このブログを書き始めた頃の私に

高齢の父は、もしもYが一生働かなくても、

贅沢しなければ食べていけるだけの蓄えは

なんとかあるから、

と悲しげに言ったのはよく覚えている。

 

私はまだ家族に矛先がむいていた段階だったが

あのままの状態が何十年続いたら

無差別に人を恨むようになったのだろうか。

 

誰かに特別な愛情をもらわないかぎり

自己愛が自分の力で変わることは

皆無であると私は思う。

私の結論を言うと、どうしようもない。

どうにか自分をよく魅せて、

どうにか誰かに認めもらい、

なんとかそれを続けられるように考えて

動くしかない。

 

その時の快楽を得るために

その先のなにかを

失うような行動をしないことだ。

 

引きこもる前に、それに気づくのは

自己愛にとっては難しすぎるのだが。

 

劣等感の塊であるが故に

お久しぶりです。

 

およそ8ヶ月、何かを書こうかと思っても書かなかった。

以前までは記事を書こうと思って書いていたわけでなく、

自己愛である自分の醜さを目の当たりにしたときの

苦しみや羞恥を少しでも和らげる策として

記事を書くという行為は結果としてのものだった。

何度か書きたいと思った瞬間もあったはずなのだが、その感情は長く続かなかった。

 

ブログをやっている以上、何か読み手に有益な情報を与えなければという義務感がなかったわけではないが、自分の自己愛を目の当たりにしている時ほどのことをかける自信がなかった。

 

何を言いたいかというと、私は今自己愛である自分の醜さを目の当たりにして苦しむことが以前に比べて激減したということだ。

 

さて、表題についてだが、

自己愛性人格障害者は結局のところ

劣等感の塊である。

 

劣等感の塊であるが故に、

何か外的要因を使って

素晴らしいと思われたがる。

 

ぱっと見、すごい人、であることが多い。

私も自分は周りと違うのだと言わんばかりに

最先端のものに飛びついていたし、

すごいと思われるためなら人を利用し相手のことなど全く考えず、

むしろ思った通りに動いてくれないと憤怒を起こしていた。

 

自己愛であると気づいた後は、むしろ溢れる劣等感から

こんなものは私には恐れ多いものだ、

私には贅沢だと極端に考えるようになった。

 

白か黒しかない

自己愛性人格障害者の特徴だ。

 

その劣等感をある程度まで打ち消せているのが今の私なのだが、はっきり言って自己愛がなおったわけではない。

結局外的要因で今の私は保たれている。

 

まず一つは恋人の存在だ。

しかし、今の恋人は元夫と違って

Yの考えは素晴らしいだとか

周りは違っていておまえの言う通りだとかを言う人ではなく、

そんな風に誰かを崇拝するようなことはない。

 

過去に記事で書いたと思うが、

元夫は極端にいうと私を崇める存在だった。

崇められることで

わたしは自分は素晴らしく

特別な存在であるという風に

自己愛が加速した。

 

今の恋人は全くそんなことはない

(かといってもちろん詰ったりされることもない)

非常に現実的で賢い人だとわたしは思う。

元々、元夫と出会う前まで私は賢い人が好きだった。

元夫は賢いと思うことはなかった。

そのこともあり

私は相手は自分が好きでたまらなく、

かつ自分は賢く正しいのだから

相手はおかしいのだという考えに陥っていた。

 

今の恋人はさっきも述べたが賢いな、と思うことが多く、

何か論議することになった時も納得させられたりすることが多い。

だからといって私が逆に一方的に納得させられてるのではなく、

本当に心からそう思うし相手の考えに対して

私も対等にこういう風にも考えられるのでは、と意見したり

感情抜きでの話し合いというものができる人だ。

 

キミが好きだからなんでもするよ

タイプだった元夫に対し

自分は自分だからなんでもはしないけど協力やアドバイスはするよ

タイプなのが今の恋人だ。

ちゃんと境界を作ってくれるので私は今の恋人を奴隷化することはない(できない)

 

話が逸れたが、まずは恋人がいてくれることが私の劣等感を埋めてくれている。

 

そして次に仕事だ。

仕事でもあまり努力もせずに簡単に成果を欲しがり、誰かを不当に利用したりするのが自己愛の特徴だ。

 

今の私は不当に誰かを利用はしていない。

自己愛に気づいた今、利用するなんて恐れ多くてできなくなった。

しかし

あまり努力もせずに成果を得ている

というのも、最初に努めた業界での知識を持っている人間が今の会社に私以外いないからだ。

その私の持つ知識はにわかであるし、私自身がすごいのでない。

環境がそうであるが故に私の価値は創られている。

 

つまり、ただのラッキーである。

しかし、にわかである化けの皮を剥がされて劣等感にさいなまれたくない私は知識を深めるために勉強をした。

表向きにはもっと仕事に貢献したいから、であるが、

本当の理由は劣等感を露わにしたくないから、である。

 

おかげで今、会社においてもYさんは仕事ができる人というレッテル貼りに成功したし、そのまま仕事ができる人でいたいから仕事にも熱が入る。

 

劣等感の塊であるが故

 

本当にしたいことなのかはわからないが、周りから自分の存在を認めてもらうことで劣等感を埋められることがわたしが働く本当の理由だ。

虚しい気がするが、仕事をしていないと私はダメになる。

 

自己愛であることで色々と感情が

不安定であったり問題は多々あるのだが、

今はその底抜けの劣等感を恋人と仕事で埋めることで

私は自己愛である自分を目の当たりにせず、

かつあまり人に迷惑もかけずなんとか生きている。

 

 

 

優越感を与えてくれる道具

他者を道具のように扱う

私はそうだ。

それも意図も利用してるのではなく、そんなつもりは無いというように。

相手のせいにして、私はあなたが好きだから、こう思うのだ、と言わんばかりに。

特に身近な人に対して

 

恋人に言われたことが図星すぎて笑いそうになった。

それとともに、自分が根から自己愛であることを再確認した。

俺がいないから寂しいのではない。

俺がいない自分を他人と比べて劣ってると感じることに耐えれないだけだ。

 

そういわれて、ハッとした。

いや、心の中ではそれに気づいてたし、そうやって寂しさのせいにしてきたけど、結局そうなのだ。

恋人は言った。

 

道具みたいに扱われてる気がする。

 

その通りです、私はあなたが好きなんじゃない、あなたと上手くいってる自分が好きなだけ。

わかってるじゃない。私だってこんな風に思いたくないけど、そうとしか思えないんだもの。

どうすればいいの?

 

普段は少なからず行動に気をつけていても、特に人と比べて劣ってると感じた時に、自己愛は暴走する。

普段から道具みたいに感じるかと尋ねると、普段はそんなことないけど、と言われた。

いや、実は普段からそうやって考えてるんだけど、そうやってみえないようにしないとな、なんて考えながらやってるんだよね。

と漏らすと、黙ってしまった。

 

黙って道具になってろや

 

と言いたくなる。

本当は。そう思うならそうやって言われた方がマシだと、恋人は言っていた。

あたかも寂しくさせた自分が責められるくらいなら、そうやって言ってくれと。

そうやって言わなくても、私の望んだように動いて欲しいって心では思ってるんだよ、寂しいんだね、でも今日はダメだって、言って欲しいんだよって。

 

利用している。私は利用している。

友人と会っても、常に比べている。

そして自分の方が幸せでないんだと顕著にわかるとき、私は卑屈になる。

 

まとまりのない文章になってしまった。

 

何が幸せなのかわからない。

自分が自分、自己愛性人格者である限り、本当の幸せなんてわからないと思う。

人より優ってる時の優越感でしか幸せを感じない。

 

私は相手自身を求めてるんでなく、私へ優越感を与えてくれる存在である相手を求めているだけだ。

寛解とは

ブログを読み返すと、元夫のことを鮮明に思い出して苦しくなる。

自己愛を露呈させないように、備忘録としての意味も込めて書いていたはずだが、その役割はほとんど果たせて居ない。

 

ただ、自己愛を露呈させない努力は、特に友人や両親、職場の人間との間においてはしており、無自覚だった頃よりは周りとの関係は良い方ではないかと思っている。

なにかにうけて周りを見下していた自分を今は恥ずかしく思うし、友人で居てくれること、自己愛が故の気の利かなさを持ちながらも仕事ができていることに今は有り難いと思う気持ちもある。

これは自己愛が治ったというよりは過剰警戒型に傾いたというだけのことだ。

 

やはりパートナーの前では自己愛的な部分の露呈はある。

変わった部分といえば、自己愛を露呈させてしまったあとは、また離れていくのではと怖くなるようになったことだ。

結局傷つけたことよりも、離れていってしまうことへの恐怖から自制することは根本的な寛解ではない。

 

最初に働いた職場で、大変ですね、と発言したときに、本当に大変ですねなんて思ってないだろあ、と言われたことがあった。

そのとき私は、本当に思ってるのに!と怒りさえ感じた。

大変ですねと本当に思っているのならそれに行動が伴うはずだが、そのときの私は言葉と行動に一貫性がなくチグハグで気持ち悪さを感じたのかと思う。

 

そこの、寛解は非常に難しく、こういう時はこういう行動をするはずだというマニュアルを刷り込ませてそのパターンで動ける場面で動くしか自己愛にはできない。

 

その行動を取り続ける。

私には本当の意味での良心がない。

だから、せめてそうやって寛解したように行動を変えるしかないと考えている。

自分の未来のために。

 

コメントを一部返信いたしました。

お久しぶりです。

表題通りですが、一部コメントを返させていただきました。

もうみていらっしゃらない可能性も考えましたが、ご本人でなくても興味のある方がいらっしゃいましたら是非ご覧になってください。

 

自己愛な人生⑧

お久しぶりです

根本は結局変われない

 

こちらのコメントです。

全くの建前なしで答えてます。

 

 

 

自己愛的行動をしてしまいました

お久しぶりです。

コメントの返事をしなければ、と不意に思う時があるのですが、そうでない日が続いています。

コメントを返すことを義務として返してしまうと究極の部分が抜けてしまうといいますか、真摯に返信できるタイミングがくるまでどうぞご容赦ください。

 

相手の気持ちを無視してしまうことが自己愛の特徴の一つとして挙げられるが、この行動を私は本日とってしまった。

いや、本日というよりも細々と長く続けてもいたのだが、今日行動は決定的だったと思う。

なんでそんなことができるのか?という行動を自己愛は平気でとる。それをされた相手の気持ちがわからないわけではないが、無視をして。

嫌だって少しでも思ってることはわかっていたけど私はその気持ちを無視し続けた。

そればかりか、嫌なら真剣に嫌だからやめてくれと言ってくれ。そうじゃないとわからない。と要求した。

指摘されると別の話にすり替える。全然違う話を引き合いに出してそれならあれはなんだったのと問いただす。

書いていて、あぁ全くその通りの行動をしてしまったなと今、思う。

 

恋人との関係を解消した方がいいのかもしれない。

私が自己愛的行動をとってしまうから。

どうしようもないことが悔しいと思ってしまう。

どうしようもないことだから、言っても何も解決にはならないのに。

彼にも言われた。

なんでプラスにならないことを求めるのだと。

わたしだって我慢してると言いたい。わたしとだったらこんなことにはならなかったのにと言いたい。

原因は決まって彼の過去のことだから。

それを除けば本当に一緒にいて楽だし頑張りすぎずにいられるちょうどいい存在なのに。

悔しくなる。

 

でも過去は受け入れた上で彼と付き合ったはずだから言ってはいけない

しかし、受け入れてたんじゃなくて、結局離れるのが怖いから仕方なく諦めてただけなのかもしれない。

我慢も相手を困らせないためじゃなくて自分から離れていかれたくないからしてるだけだ。

 

 

分かってる。本当にわたしは弱い。

なのにまだ甘えたい心が払拭できない。

本当はわたしだってこうしたいんだよ、我慢してるんだよ、何も文句言わずに過ごしてるのにって。

相手が色々大変なこともわかるから、だからゆわないのにって(こうやって相手の気持ちに罪悪感を植え付けたくなる。でもそんなことをいうとじゃあもう別れようと言われるのが怖くて言えない)

まだ行動にはうつしてないしうつしてはいけないと分かってる、けど泣きたくなる。

ここまで思うくらいなら別れる勇気がほしい。

でもそんなことしたらまた精神がおかしくなってしまうことはもうわかっている。

やっぱりわたしは弱い。

 

承認が遅くなり申し訳ございません

表題のとおりです。

共感いただけるコメント多数いただき有難うございます。

自己愛本人の苦しみ、自己愛を身内にもつ方の苦しみ、どちらも計り知れないと思います。

どうか本人がそれに気づき、自分を客観視して寛解できることを祈るばかりです。

 

私自身、恋人とは順調ではありますが、やはり甘えが強いということをいわれました。

だからと言って離れることはないという言葉に支えられて自分を律しながら生活する毎日です。

自分のない自己愛だからこそ相手の色に染まることもできるのではないかと思います。

自分が相手なしで生きられないという自覚を持つ限り。